崖っぷち日本のユートピア社会学by大山昇悟

崖っぷちに立っている日本をどうしたらユートピア(理想郷)にできるか日々考え答えを探していくブログです

再チャレンジできる社会の実現を目指して〜棋士達の挑戦編①

昔から日本では一度つまずくと社会的評価が下がり、二度と浮上できなくなる」と言われてきました。

 

例えば、サラリーマンを15年以上やってきて、その間仕事をしっかりやってきたとします。

そういう人が何かしらの理由により会社を辞め、転職活動をすると、その15年間の社会人としての実績はまるで考慮されず、面接でも相手にされず悔しい思いをする人は少なくないと思われます。

 

このあたりは、日本社会の雇用の仕組みや、市場経済の原理に理由が求められるのかもしれません。

 

要するに企業側としては、給料が安くて済む若くて優秀な人材が欲しいからです。

 

ですが会社に勤めている立場の人にとっては、転職しずらいですし、また独立して起業などもしずらくなるような気がします。

 

なぜなら転職活動する時点で新卒よりは年を取っているので、「転職活動が上手くいかなかったら派遣をやるしかないかも」という恐怖心もありますし、

起業して失敗すれば「失敗した人間」と見なされるからです。

 

すると、必然的に給料が良くて、長く勤めやすく、社会の変化の波に影響されない仕事ばかり希望する人が増えたり(公務員が人気の職業である理由でもあると思います)、世の中を変えるような新しい会社を立ち上げたいと思う人が出て来ないのではないでしょうか。

 

つまり、「新たな挑戦をせず」「無難な人生を望む生き方」をする人が増えてしまうと思うのです。

 

そのあたりに日本が長年停滞している一因があるような気がします。

 

自分としては、そのような社会より、何度でも挑戦し、再チャレンジできる社会のほうが、よりユートピアに近いのではないかと考えます。

 

ですので、様々なジャンルの事例を取り上げて、再チャレンジできる社会の条件や制度を探り、かつ新たな提案などが出来ればと思っています。

 

そこで今回は、泣き虫しょったんの奇跡 完全版」の著者であるプロ棋士瀬川晶司さんのケースを紹介したいと思います。

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瀬川晶司棋士は、1970年生まれで、現在は6段です。

 

*プロ棋士を目指す奨励会とは何か?

日本将棋連盟のサイトより

【三段から6級までで構成されており、二段までは東西にわかれて行い、規定の成績を上げると昇級・昇段となります。三段になると東西をあわせてのリーグ戦を半年単位で行い、上位二名が四段に昇段し、正式に棋士となります。】

 

瀬川棋士は、年齢制限である26歳までに四段になれなかった為に、プロ棋士になれませんでした。ですが、その後アマチュア棋士として活躍。2005年に特例としてプロ編入試験を受けて合格し、プロ棋士になった人です。

 

瀬川氏がプロ棋士を諦めざるを得なかった年齢が26歳。そして編入試験に合格し、晴れてプロ棋士になったのが35歳です。

 

そこまでの経緯が瀬川氏著作の「泣き虫しょったんの奇跡 完全版」に書かれているので、紹介していきたいと思います。

 

まず、瀬川さんが将棋を始めたきっかけが、「小学5年生の時に学校で将棋が流行ったから」だそうです。

 

そして瀬川さんにとって、幸運だったのが5年生の時の担任の苅間沢先生が、とても良い先生で生徒一人ひとりの長所をしっかり見て、かつ伸ばしてくれる先生だったのです。

 

瀬川少年は、4年生まではどちらかというと「いるのかいないのか、わからない」ような存在だったそうです。

 

ところが5年生の時、将棋を好きになりかけていた瀬川少年が勇気を出し、ホームルームの時間を利用してクラスでの将棋大会を開催することを提案したのです。

 

その提案を苅間沢先生が受け入れてくれて、瀬川少年が中心となり大会が進められ、結果的に瀬川少年が優勝します。

 

瀬川氏は優勝したことよりも、やや引っ込み思案な自分が、積極的に提案し、将棋がわからない女子に教えたり、中心的に大会を運営できたことがすごく自信になったと述べています。

 

そしてその背景には苅間沢先生の存在が大きかったと述べています。

 

そして、時が流れて35歳の瀬川氏がプロ棋士編入試験を受けて、初戦を落として落ち込んだときにも、苅間沢先生からのハガキによる励ましにより気持ちを立て直すことができたとのことです。(こういう凄い先生って現実にいるんだなと思いましたし、少しうるっとしました)

 

将棋が好きになった背景には苅間沢先生の存在があり、将棋が強くなった原因は、自宅の前に住む同じ歳の健弥君の存在が大きかったとのことです。

 

健弥君は瀬川少年のライバルであり、毎日のようにお互いの家で将棋を指していました。

 

そのうち父親が、二人でばかり指してもつまらないだろうからと、町の将棋道場に連れていってくれたのです。

 

二人は将棋道場で少しずつ頭角を現します。

そして必然的に二人はプロ棋士になりたいと思うようになりますが、健弥君は実力があるにも関わらず、家庭の事情によりプロになるのを断念します。

 

対して瀬川氏の父親の方は職業について、「好きなことをしろ」とよく言っていたのです。

 

瀬川少年は14歳でプロ棋士の登竜門である、奨励会の試験に合格しました。

この後、26歳の年齢制限まで瀬川氏は奨励会で苦闘することになります。

 

瀬川氏は、もし健弥君が一緒に奨励会に入っていたら、もっと早くプロ棋士になれたかもしれないと述べています。それほど健弥君は格好のライバルであり、瀬川氏の将棋が強くなった要因のひとりでした。

 

奨励会では半年に1回、所属している人(三段)同士で総当たりリーグ戦を行い、上位2名がプロになれます。

 

14歳だった瀬川氏は26歳の締め切りまで、10回以上のチャンスがあり、最初は余裕でプロになれると思っていたようです。

 

プロ棋士(四段)になる為には、半年に一度のリーグ戦で13勝4敗以上の星が必要であり、意外に届きそうで届かない勝ち星らしいのです。

 

26歳の年齢制限もさることながら、本を読んでいて感じるのは、20歳前後の多感な時期、様々なことに誘惑されやすい年齢の時に、将棋のみに打ち込むことの難しさがあるように感じました。

 

瀬川氏は自著の中で、奨励会での12年間を「後悔だらけの12年間だった」と述べています。

 

以下、瀬川氏の言葉です。

「後悔の理由は、全力でぶつかれば夢をつかむ力がありながら、それをしなかったことに尽きる。僕はプロ棋士になるという夢から逃げてしまった」

 

「自分には将棋しかないことは、誰もがわかっていた。それでも将棋を指すことが苦しくなり、将棋から逃げ出したくなってしまう。それが奨励会というところなのだ」

 

プロ棋士を目指す瀬川氏は東京で一人暮らしを始めます。すると同じプロ棋士を目指す若者達が、瀬川氏のアパートに集まり、時には青年期特有のやや自堕落な面も出てき始めます。

 

そして、仲間の中には26歳までにプロになれずに、ひとり、またひとりと、奨励会を去っていく人も出てくるのでした。

 

26歳までにプロになれなかったら、今まで費やした時間が全て無意味になってしまう!

 

という恐怖心を年々感じながら、ついに瀬川氏は25歳最後のリーグ戦で上位2名に入ることができずに、プロ棋士になる夢を断念せざるを得なくなったのです。

 

それにしても、と思うのは、一つの夢を12年間追い続けることの大変さと、努力が報われなかった残酷な現実です。

 

瀬川氏は、直後に自殺まで考えてしまいます。

(タイミングが悪ければ本当に自殺してしまったかのような描写が本では書いてあります)

 

結果的に自殺はせずに瀬川氏はアパートを引き払い、実家に戻ったのでした。

 

実家に戻った瀬川氏は、しばらく何をする気力も湧かない為、家で生ける屍のようになっていたといいます。

 

そんな瀬川氏に対して兄は「早く気持ちを切り替えて、何かやりたいことを見つけて、自分で動きだせ!」と厳しく叱責します。

兄に言われたことが頭では理解できても、瀬川氏曰く「心も体も、石になったようになんの意欲も湧かないのだ」

 

「僕は心の傷口に塩を塗られたような辛さを感じていた」

 

「僕はまた、将棋を恨んだ」

 

そのような瀬川氏に対して、父親は「おまえは本当に頑張ったんだ。だからしばらく休め。これからのことはゆっくり考えればいい」と優しく言ってくれるのでした。

 

瀬川氏はその後、アルバイトをしながら夜間大学に通います。

 

そしてある日、かつてのライバルだった健弥君の家で、久しぶりに将棋を指すことになります。

 

健弥君はその後、普通に働きながらアマ名人アマ竜王の二大アマチュアタイトルを手にしています。

 

瀬川氏はその健弥君と数局指して負けてしまいます。ところが負けても悔しいとは思わずその楽しさに呆然としたとのことです。「僕は、いま通り過ぎていった時間の、あまりの楽しさに驚いていた。自分の思い描いた構図を盤上に自由に表現する快感。成功するかどうかわからない攻めを思い切って決行するスリル。いま健弥君と指した将棋は、僕が好きだった将棋の楽しさに満ちていた」

 

瀬川氏は、奨励会で年齢制限に怯えながら指していた将棋と引き比べ、そして将棋本来の楽しさを思い出し、また町の将棋道場に通うことにしたのです。

 

そして、アマチュアの将棋大会である「平成最強戦」で、優勝するつもりがベスト4どまりになったことにより、瀬川氏は本格的にもう一度将棋に取り組みはじめたのでした。

 

瀬川氏はその後、1999年29歳の時にアマ名人になります。

 

そして2000年30歳の時、アマチュアも参加できる銀河戦においてプロ棋士を相手に7連勝したのです。

 

さらに2003年33歳の時の銀河戦では、プロ棋士のA級八段にも勝ち、ベスト8に入ることができ、2004年34歳の銀河戦でも6連勝し、対プロ戦の勝率が7割を超えたのです。

 

瀬川氏曰く「もしかしたら、将棋の強さとは一通りではないのかもしれない、とも僕は考えた。(中略)もしかしたら別の道筋を通ることで、まったく異質の強さを身につけることができるのではないか。(中略)僕のように奨励会で泣き、外の世界に出て将棋の楽しさに目覚めた者にしか会得できない強さというものがあるのではないか、と。」

 

対プロ棋士との勝率が7割を超えたあたりで、瀬川氏のアマチュア仲間の中から、「瀬川さんはどうやったらプロになれるだろうか?」という声が出始めます。

 

とはいえ酒の席での話題であり、瀬川氏も話半分に聞いていたのです。

 

ところがその仲間の一人の遠藤氏が、真顔で瀬川氏に「瀬川くん、プロになる気はないのか?」「君が戦う場所は、アマの世界じゃない」「もし君にその気があるなら、僕は君がプロになれるよう、どんな協力も惜しまない」

と言ってきたのです。

 

仕事も将棋も順調だった瀬川氏は迷いますが、数年前に亡くなった父に誓ったことを思い出し、再度プロ棋士を目指すことを決意したのです。

 

それからは遠藤氏が中心となり、瀬川氏をプロにすべく、親しいアマ強豪や新聞の将棋担当記者に声をかけて賛同者を増やしていったのです。

 

そして瀬川氏も「将棋世界」という機関紙での取材で「プロになりたいんです」という発言をしたところ、すさまじい反響があったのです。

 

全国紙やインターネットで取り上げられたのはもちろんのこと、将棋連盟の棋士達の間でも話題になったのですが、思いの外プロ棋士達の反応が悪かったのでした。

 

曰く「潔くない」「女々しい」などの意見です。

 

瀬川氏はそれに対してこう思ったそうです。

「一度失敗した人間が再び夢を追うのは、やっぱり許されないことなのだろうか。(中略)潔くないことは、そんなに罪なことなのだろうか」

 

「アマチュアの世界には、僕のように一度は挫折してから将棋の楽しさに再び目覚めた者もいる。歳をとってから将棋に打ち込みはじめた者もいる。環境に恵まれずに才能を伸ばすことが出来なかった者もいる。

 

そんな人達でも、プロの夢を追いかけることができる制度を作ってほしい」

 

世間的には瀬川氏を応援する声が多かったものの、肝心の将棋界では反応が悪かった為、瀬川氏も少し気持ちが沈んでいたところ、会社の後輩が素朴な疑問を口にしたのです。

 

後輩「プロにそんなに勝っている人がプロになれないなんて、おかしいじゃないですか。他の世界じゃあり得ないですよ。だって野球でもサッカーでも、すごいアマチュアがいればプロの方からスカウトに来るわけですから。」

「それに、瀬川さんみたいに一度ダメだった人が歳とってからまたチャレンジするのって、夢があってかっこいいと思うんですけど」

 

この後輩の言葉で元気を取り戻した瀬川氏は、日本将棋連盟に正式に、嘆願書を提出します。

 

そして、2005年5月26日全てのプロ棋士が集まって開かれた棋士総会で瀬川氏のプロ編入試験の是非」について多数決を取ってみたところ、賛成129、反対52でプロ編入試験が可決されたのです。

 

さらに、日本将棋連盟は、「奨励会以外にもプロになれる制度をつくる」と約束してくれたのでした。

 

瀬川氏はその後、11月にプロ編入試験で3勝をあげて、合格を決めたのでした。

 

実は、戦前にはプロ編入試験が一度だけあったらしいのですが、戦後は瀬川氏が初めてであり、61年ぶりだとのことです。

 

26歳の年齢制限を突破し、かつ新しいそれ以外の制度が作られた功績は誰に帰結するのでしょうか。

 

もちろん、

瀬川氏本人の意志と努力、アマチュアでの実績です。

 

そして、周りの瀬川氏を応援する仲間。

 

私自身が最も大きな要因だと思うのは、将棋連盟に所属するプロ棋士達。

 

そして、天才棋士羽生善治の言葉です。

 

実は裏話として、瀬川氏らがプロ棋士になる為に奔走していた時期に、羽生善治竜王(当時)が将棋雑誌に「プロになるのに年齢は問わないでいいのではないか」という趣旨の発言をしたことが、瀬川氏らの追い風になったらしいのです。

 

もしこの時、羽生氏が「今までやってきたルールは絶対」とか、「前例がない、潔くない」などと発言していたら、他の棋士達もおそらく「羽生さんが言うんだから正しい」となったような気がするのです。

 

羽生氏は瀬川氏がプロになった後も、「年齢は関係ないという道をつくったのは大きなことですよ」と、瀬川五段の功績を称えています。

 

再チャレンジ、リスタート、敗者復活、セカンドキャリアなど、様々な言い方がありますが、瀬川晶司棋士のケースを知ることにより、日本社会が「何度でも再チャレンジする人」を許容できる社会に近づくことを願ってやみません。

 

以上です。

 

*追記・②以降についてはまた機会を作って記事にできればと考えています。

 

 

 

 

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