崖っぷち日本のユートピア社会学by大山昇悟

崖っぷちに立っている日本をどうしたらユートピア(理想郷)にできるか日々考え答えを探していくブログです

妬み嫉みをなくす方法・前編(全2回)

今回はユートピア社会を作る前提条件であるところの、個人のユートピア、心のユートピアについて、妬み嫉みを題材にして語ってみたいと思います。

 

ちなみに「妬み」と「嫉み」は厳密には違う意味らしいのですが、ようは「羨ましくて、悔しい、憎らしい」という感情です。

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今回のブログで妬み嫉みを題材にしようと思ったきっかけは、7月に起こった藤井聡太棋聖(18)に対する脅迫電話事件」でした。

 

以下、朝日新聞デジタルより一部抜粋します

【愛知県警は、50歳無職のK容疑者を威力業務妨害の疑いで逮捕した。

 署によると、逮捕容疑は7月17日午前9時20分ごろ、瀬戸市役所に電話し、応対した男性職員に「藤井聡太の報道やめろって言えや」「瀬戸市そもそも爆破させたろか」などと言い、市の業務を妨害したというもの。K容疑者は「将棋が嫌いで、コロナの時期に高校生で連日テレビにでていた藤井聡太も気に入らなかった。他にも複数回市役所に電話をかけた」と供述しているという。】

 

この記事を読んだ人はおそらく、K容疑者が50歳でありながら無職であり、その反面、高校生にしてプロ棋士藤井聡太さんが華々しく活躍していることに対して面白くないと感じての犯行だと思ったことでしょう。

 

そしておそらくその推測は当たっていると思います。

 

誰でも他人が凄い成功したり、凄い幸福になったりしているのを見て、「羨ましい」と感じるものです。

ところが「少し羨ましく感じる」くらいならまだしも、それが「妬み心」に変化して、心が苦しい状態になると不幸感覚が強くなってきます。

 

ちなみに今回のブログ記事のカテゴリーは「心のユートピアです。心のユートピアとは、言い換えると「心の幸福」のことです。

 

では心の幸福とは何なのかということですが、いくつか挙げると、一つには「平静心」です。心が悩みにとらわれずに、平らかで湖面のような静かな状態です。

 

「妬み心」が出ている状態は、少なくとも心が苦しい状態であり、幸福な状態ではありません。

この「妬み心」を無くすか、軽減するか、何かしらで解消すれば、平静心を獲得できるので、心は幸福だと思います。

 

その「何かしらの方法」を自分の今までの勉強と実体験で述べたいと思います。

 

まず「他人の成功を妬ましく感じるのは、自分が興味や関心を持っている領域においてである。本当は、その成功した人に自分が成り代わりたいのであって、その人は自分の理想像でもある」ということです。

 

K容疑者は、「将棋は嫌い」とのことです。では何がK容疑者の理想像かというと、藤井聡太棋聖「若くして、才能、実力、実績、地位、金銭、名声」が与えられていることに対してであると思われます。

 

ということは、これが将棋ではなく、「囲碁、チェス、テレビゲーム」であったとしても、「若くして世間から同様に扱われていれば」K容疑者は同じ行動を取っていたのではないかと推定できます。

 

つまり藤井聡太棋聖のように「自分も若くして華々しく活躍して、お金も地位も名声も手に入れたい」と思うものの、自分には手に入らなくて苦しんでいるのです。

 

こういう状態を仏教では、「求不得苦(ぐふとっく)」と言います。いわゆる「求めても得られない苦しみ」です。

 

人間が地上に生まれると、ほぼ誰もがこの苦しみを経験することになります。

 

そしてこの苦しみが仏教理論に当てはまるのであれば、当然この苦しみの解決方法があるはずです。

 

ここで難しい仏教理論を抽象的な言語などを使わずに、「妬み心」をなくす方法を述べてみたいと思います。

 

まず、妬み心が起きるということは、それが自分の理想像であると認めることです。

 

次に、自分の理想像である「若くして、才能、実力、実績、地位、名声」が、自分にも得られる可能性があるかを検討してみることです。

 

すると「若くして、何かしらの才能」がある人など、大抵の人は当てはまらないと思われます。

 

特に、若いうちから花開く分野は限られており、しかもかなり特殊な領域です。例えば、スポーツ、芸術、天才数学者、アイドル歌手などです。また、当然将棋もです。

 

この辺りの分野は、若くして才能がないと見られた場合、頑張ってもほとんど一流のレベルにはいかないでしょう。(将棋界では一部、例外も出ていますが)

 

昔、高校野球をしていた人に聞いたことがあったのですが、高校の時点で130キロ以上のスピードが投げられなければ、プロにはなれないみたいなことを言っていました。スポーツの世界は数値で出てしまうので諦めやすいと思います。

 

厄介なのは芸術の分野です。特に絵画だと自分の死後に絵が認められてしまうこともある為に、「自分は才能も実力もあるが、世間の見る目がないだけだ」と考えて、ダラダラと芸術家を目指し続けてしまうことが少なくないように見えます。

 

ですので「若くして才能がない」のであれば、ほとんどの人が当てはまるので、いたずらに悲観などせずに、その分野での成功は早々に諦める方がいいと思います。

 

次に簡単に諦めて終わりにしていいのか?という問題が出てきます。

 

そもそも妬み心というものは、本来人間に備わっている「向上心」「成長欲」の裏返しでもあるのです。ですので「諦めたから全てを辞める」などと捨て鉢にならずに、「特殊な才能はあまり必要とせず、努力で道が開ける分野」での自己実現に切り替えるべきです。(もちろんどんな分野でもある程度の才能は必要ですが)

 

そこで、若くはないが、例えば30代〜60代でも何かしらの才能、長所が自分にもないか検討してみることです。55歳から始めて日本地図を作った伊能忠敬みたいに大器晩成型もいるからです。(当時の55歳は、現代だと65〜70歳くらいでしょうか)

 

そして、もし何かしら、伸びしろのありそうな長所や才能が自分にあった場合、例えば30代、40代から取り組んでみて、果たして死ぬまでに突出した実績が出せるか考えてみるべきでしょう。

 

この場合、死ぬまでに何かの分野での専門家や、プロになれるかはわかりません。また、自分が思い描いていた大成功まではいかないかもしれません。

 

ですが、例えば30歳から始めて、80歳まで50年間一つのことをやり続ければ、必ず誰しもが最低でも「セミプロ」レベルには到達できると思います。

 

ただし、それが金銭的な方面に結びついたり、地位や名声にまで結びつくとは限りません。おそらく、「知る人ぞ知る」という存在になり、周りからは「一目置かれる存在」にはなれると思います。

 

例えばある一つの専門家になるのは、「その分野の本を2000冊読めばなれる」という説を唱えている思想家もいます。

そういう意味では、ミステリー小説を2000冊読めば、ミステリー評論家くらいにはなれるでしょう。一般的にはミステリー小説好きでもせいぜい3桁冊くらいだと思われるからです。

 

プロではないもの「一目置かれる存在」としては、41歳でプロ棋士になった今泉健司4段が、アマチュア時代に出会ったアマ棋士についての事例が好例だと思います。

 

今泉健司さんは、プロ棋士の昇段試験に落ちてからは別の仕事をしつつ、趣味としてアマチュアの将棋大会などに出たりしていたようです。

 

その中のアマチュア棋士の中に、将棋が強くなる為に結婚もせずに真剣に将棋に取り組んでいるアマチュア棋士がいるのを知って、その人の将棋に取り組む純粋かつ真剣な姿勢に「心を打たれた」と自著で述べています。

 

そのようにアマチュアであっても、その姿勢において一目置かれるような人もいるのです。

 

今まで述べてきたことをまとめると、

先程例に挙げた「スポーツ、芸術、将棋、数学、アイドル」などは、特殊な才能であり、誰もが努力でなれるものではありません。ですが、超一流まではいかなくとも、一流レベルの才能があると客観的にも認められている人に限っては、成功している人の研究をすることによって、「一流の上」か、「超一流の下」くらいはいけると思いますので、努力した方がいいと思います。

 

そしてそれ以外の人は、諦めて別の道を模索した方が良いと思います。

 

次に、「特殊な才能が必要ではなく、努力の質と量によってリカバリーできる分野」で、「セミプロレベルの専門家になり、成功していく為に必要な努力の心構えと留意点」について述べてみたいと思います。

 

まず一番最初に述べておかねばならないこととして、例え個人的に努力した結果、何かしらの専門家やセミプロになれたとしても、その結果「地位や金銭、名誉」などが伴うとは限らないということです。

 

なぜなら金銭とは、自分の提供する製品や、サービス、または知識などが「人の役に立って初めて対価として得られるものだからです」

 

ということは努力した結果、実力はついたものの、目に見える実績まではタイムラグがあり、お金まで生み出すことができずに寿命が来てしまったということもあり得るからです。

 

次に、人間の「長所、才能」をどう見るべきかについてです。

芸術やスポーツは特殊な才能が必要ですが、他の分野でも多かれ少なかれ何かしら才能が関係するとは思います。ただ努力によって足りない才能をカバーできるか否かの違いかもしれません。

 

プロとして「超一流、一流」になれなくても大抵の人は何かしら、「長所、才能」はあるものです。例えば学校の勉強一つ取っても、先生の言ったことを聞いた先から、全て「理解」し「その場で記憶できる」子どももいれば、理解するのも、記憶するのも平均的な子どもより、2〜3倍かかる子もいます。

 

スポーツなども運動神経が最初から優れている子もいれば、大人になっても運動オンチな人もいます。

 

また手先の器用さもかなり先天的なものです。

 

自分も20歳前後の頃は、この「努力で埋められない、持って生まれた才能の格差」に苦しみました。

 

ですが20代前半に様々な教養を積み始めて、あらゆる分野の本を読むようになってから、ある一つの結論に達して心が軽くなったのです

 

特に、仏教、キリスト教などの宗教書や、スウェーデンボルグを中心としたスピリチュアル系の本から得た示唆が大きかったです。

 

つまり人間に持って生まれた才能の差があるのは「生まれ変わり(転生輪廻)を繰り返す過程における、努力の蓄積の差である」

そして、これこそ「才能の正体」であると確信できたのです。

 

そして、そうであるならば努力したことに何一つ無駄なことはなく、努力すればするほど、自分の魂に蓄積され、次に地上に生まれた時に、その蓄えていた実力を発揮することができると考えることができるようになったのです。

 

それと同時に妬みの心は、相手の長年の努力を認めない考えであると気づきました。また相手の努力に敬意をあらわすのが大事だということも気付いたのです。

 

この結論に達する為には、人間はこの世限りの存在ではなく、「この世とあの世を、永遠に転生輪廻している存在である」という霊的確信が不可欠になります。

 

そして確信が出来れば、仏教でいうところの「(成功を)求めても得られない苦しみ」の原因が判明し、解決方法も自ずと導かれるために、苦しみは消滅するのです。つまり心の幸福の条件である平静心を獲得できるのです。

 

以下、後編に続きます。

 

 

 

 

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