残念ですがブログを一旦休止します🌏
2019年6月に始めたブログですが一旦休止します。
理由としては…あまりはっきりとは言えませんが、個人的な運命の転換期に入ったかもしれないと感じたからです。
ですが、転職とか、結婚とか、離婚とか、失業とか、病気とかが理由ではありません。理由の一つとしては現在の日本及び世界情勢が関係しています。
ここ数十年の世の中を、定点観測している人ならばわかると思いますが、現在地球はかつてない危機を迎えていると思います。
思いつく限り幾つか挙げると…
○北朝鮮問題
○中国の世界支配の野望
○ロシア・ウクライナ紛争
○コロナパンデミック
○コロナに乗じた医療全体主義
○日本国内の全体主義化と衰退化
○SDGSの大嘘
○ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス)
○LGBTQ
○知識偏重主義による、階級社会の構築
○形を変えた共産主義の拡大
○国家の枠を超えて地球を支配しようと目論むグローバリスト(ディープ・ステイト)の暗躍
これらの問題は、現在及び未来の地球の運命を左右するほどの危機を内包しており、そう簡単には解決出来ないと思われます。
特に世界を支配しようとしている「中国共産党」と「グローバリスト」の二つの邪悪な勢力が地球における最大の癌であり、あの手この手を使って世界の支配体制を構築しようと暗躍していることが、上記の様々な問題を生み出しているのです。
その思想的背景には「唯物論」「無神論」があり、「お金」と「政治的権力」「経済的権力」「新旧マスメディア」「軍事力を含む殺傷力」等を手段にしてやりたい放題です。
彼ら二つの勢力の狙っている事は…
人間を家畜化、奴隷化、ロボット化して自らは支配階級として君臨しようという野望を持っています。そしておそらく通常の家畜化された人間達のさらにその下の層として宗教を信じている人々を最下層に置くか、または神を信じることは禁止されるでしょう。
そして今の流れで行くと、それは確実に実現する可能性が高いと推測できます。
つまりこの地球上が、中国か、グローバリストか、またはその両者によって支配されることにより、完全なディストピアが完成するということです。
宗教的な言葉で言えば、地上が地獄になるということです…。
それに関連しますが、つい最近テレビでタモリが黒柳徹子に2023年はどういう年になるか聞かれた時に、タモリの答えが「新しい戦前になるんじゃないでしょうか」と答えたのが話題になりました。
それは日本が中国と対峙しないといけなくなるという意味だったのかは定かではありませんが、僕の認識はタモリとはだいぶ違います。
今年から日本及び世界は、かつての「ムー大陸、アトランティス大陸の陥没前夜」に相当するだろうと思います。
ですが全てが海の藻屑にはならず、おそらく2050年くらいまでに地球の人口は現在の半分になり、日本の人口も8000万人くらいまで減る可能性があると予想しています。
ひょっとしたら、それに伴いかなりの科学技術なども失われるかもしれません。まあ、それも仕方ないと思います。なぜなら全ては自由に付随する選択の結果だからです。
そして、現在の混沌とした世界の状況を見てみれば、ここ数十年の人類が下した判断について言えば…
「人類は賭けに負けたのだ」と言えるでしょう。
負けた責任は、嫌でも取らなければならないのが「自由の鉄則」です。
僕も含めて全ての人が「ムー大陸、アトランティス大陸陥没前夜」の苦難を体験せざるを得なくなるでしょう。
僕自身は、それに伴いブログ活動以外でやらなければならないことが出来てしまった為、やむを得ず今回の判断に至りました。(もしかしたら時間的に余裕が出来て時々記事を更新することがあるかもしれません。また、数年後にはブログを復活させないとも限らないのであくまで「終了」ではなく「休止」にしました)
あとみなさんのブログは時々読んだりすることはあるかもしれません。(スターは押さないかもしれませんが)
まだまだ書きたいことはたくさんあるのですが、これも運命だと思います。
最後になりますが、3年半の長きにわたり当ブログにお付き合い頂き本当にありがとうございました。🥹
追記:現在の地球を取り巻く状況と、解決策が得られる為の参考書籍として3冊挙げておきます。これだけで充分というわけではありませんが…考えるヒントになれば幸いです。
息抜き小噺(こばなし)〜冷蔵庫は果たして何年使えるのか?
今回の小噺(こばなし)は、2008年に購入した冷蔵庫が壊れしまい、新品に買い替えるまでのドタバタ話しです。
大型家電の故障は、生活に直接的な影響が凄く大きいと今回わかりました。
最初の始まりは2020年の秋頃、冷蔵庫のメインの扉の下から水が漏れていることに気づいたことです。
最初は、庫内の食品の何かが解凍されて、水が出てしまったと思いました。ですが中を調べても特にそのような食品はありません。そしてほぼ同時期に製氷機の氷ができなくなったことに気づきました。そして素人考えで「製氷する為の元の水が上手く流れてないのではないか?」と考えて、説明書などを見つつ、メンテナンスしてみましたが、状況は変わらずに水漏れしてしまいます。
さすがにこれはおかしいと思い、それ以上製氷機用の水を入れるのはやめました。これは本格化に修理しないといけないと思ったからです。
とはいえ、氷が作れないのは困る為、ホームセンターで昔の冷凍庫によく見かけたような氷を作るプラスチックケースを買ってきて製氷された氷が貯まるスペースに、ケースを入れておいたところ、半日くらいで氷が出来たのでしばらくはそれでしのごうと決めました。
↓古典的な製氷ケース
そして後日、冷蔵庫のメーカーのT社に電話するとすぐに修理業者が来てくれました。(この費用は約5000円くらい)
業者の人は何やら複雑な装置を冷蔵庫に入れたりして、ゴソゴソやっています。
すると20分くらいして検査結果が出ました。
結論は、
「冷蔵庫内を冷やすガスが漏れています」
「修理費用は5〜10万円かかります」
「個人的には修理するより新品を買う方が良いかと思います」
そして、実際に他の人も修理するより新品を買う人の方が多いことを教えてもらいました。
つまりこの冷蔵庫は2008年の秋頃に購入し、故障したのが2020年の秋頃なので、ちょうど12年間もったことになります。
うーん🧐…冷蔵庫は単価が高いので、せめて15年くらいは故障せずにいてほしいというのが、偽らざる心境です。
ですが早速新品を!とはならなかったのです。丁度この時期に引越しを検討していた為、買い替えるなら引越しに合わせようと思ったからです。
ところが、様々な事情が重なって引越しも中々進みません。そして冷蔵庫は容赦なくガス漏れが続き、ドアを開けるたびに庫内がぬるくなったように感じます。
そして結局、2021年は騙しだましぬるい冷蔵庫を使い続けたのです。
そのぬるさがどれくらいかというと、正常な冷蔵庫を100の冷え方としたら60〜70%くらいです。
しかもそれは1日1日経つごとに冷蔵能力のパーセンテージが落ちていってるような気がしました。
なので、冷蔵庫を開ける度にハラハラし、お刺身などの生物をスーパーで買って冷蔵庫に入れる度に、ヒヤヒヤしていました。
あとこれは修理業者の人から聞いたのですが、製氷機はマイナス数10度で一気に凍らせるらしいのです。マイナス0度まで冷えていれば、水は氷になりますが、アイスなどは溶けてしまうとのことでした。
そして冷蔵庫の調子が悪くなってから1年半ほどは、氷を作るケースでなんとか氷が出来ていた為、職場にも水筒に氷を入れることが出来ました。
ですが、その氷ができるペースも次第に遅くなり、最初は1日に2回は作れたのが、一日に一回のペースにダウンしたのです。
そしてついに2022年の7月のある日。ついに…水が氷にならなくなってしまいました。
その時は丁度ランニングと筋トレをし、お風呂に入った後だったので、氷ができないのがわかった時はもう発狂しそうになりました。
そしてこれを機に引越しなんか後回しにして、新品の冷蔵庫を買おうと思い、次の日家電量販店に行き新しい冷蔵庫を買ったのです。
そして冷蔵庫が届くのが8月16日。
この日を指折り数えて待ち、頭の中は新品の冷蔵庫にガリガリ君やアイスをたくさん入れている妄想を膨らませていました。
そしてついに配送業者が新品の冷蔵庫を運んできました。
まずは古い冷蔵庫を玄関ドアの外に運び出しました。次は新しい冷蔵庫を運びこむのだろうと思っていたところ、何やら業者さんがヒソヒソ話しています。
「…これ(新しい冷蔵庫)は……厳しいかも……少し……サイズが………」
何やら不穏な雰囲気です💦
業者さんはおもむろにメジャーを取り出し、ドアのサイズやらをあちこち測っています。
すると業者さんが意を決したように、
「新しい冷蔵庫は、奥行きのサイズが大きいので、色々と測ってみた結果、部屋に入れることは出来ないと思います」
😫❗️
「玄関のドアを外して、少し入れたとしてもブレーカーが邪魔なのでやはり部屋に入れることは出来ないと思います」
…個人的には、故障した冷蔵庫もかなり大きいサイズであり、「このサイズが入るなら、どんなサイズでも入るだろう」と勝手に思い込んでしまったのがミスでした。
冷蔵庫の配送業者さんには平謝りに謝り、古い冷蔵庫をもう一度元の場所まで戻してもらいました。
そして速攻で家電量販店へ。
今度はしっかり縦・横・高さを測って別メーカーの冷蔵庫を購入。サイズダウンしたので、4万円ほど安くなりました。
ですが店に在庫がないので、自宅に届けられるのは9月上旬になるとのこと。
最も冷蔵庫を使いたい期間に冷蔵庫が届かないなんて…と憂いても仕方ありません。
諦めて新しい冷蔵庫が届くまでの期間をどう過ごすか思案しました。
そして…ハタと閃いたことは、
最も氷を使いたい休日の二日間に、スーパーの無料氷を沢山もらってきて、それを1ℓと1.5ℓの保冷水筒に入れて保存しておけば、なんとか二日間氷を使えるのではないかと画策したのです。(その後、スーパーの無料氷は飲食にはそぐわないと知り、数100円出してちゃんとした氷を買うことに)
ちなみに水筒に入り切らない氷は、保冷タンブラーに入れて、故障冷蔵庫に入れておくことに。
↓左が1.5ℓ用の保冷水筒。あと画像にはないですが1ℓ用の保冷水筒に氷だけ入れて二日間保存しておきました。入りきらない氷はさらに、画像右の小さいタンブラーに。
そして具体的には休日の1日目の夕方に氷を購入し、保冷用水筒に保存。24時間以上経った二日目の夜でもなんとか氷を使用できました。
そんなこんなで、9月上旬に新品の冷蔵庫が届きました。
冷え方もバッチリで、製氷機も面白いように氷を製造してくれます。
食品はしっかり冷え、氷をガンガン入れてジュースが飲めるのがこれほどありがたいと思ったことはありません。
大袈裟でなく、冷蔵庫こそ神家電だと思いました。
もう一度まとめると、冷蔵庫が故障なしでちゃんと使用できた期間が12年。
そこから約1年10ヶ月騙しだまし使用してましたが、氷ケースに入れた水が凍らなくなったのが、7月だったことから、
冷蔵庫の耐用年数は12年プラス1年8ヶ月とみてよいでしょう。
みなさんの冷蔵庫の買い替えスパンの参考になれば幸いです😅
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読書人口倍増計画・お勧め本6「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」
今回お勧めしたい本は、数年前にネット上で話題になった登山家である栗城史多(くりき のぶかず)氏の半生を描いたノンフィクション「デス・ゾーン栗城史多のエベレスト劇場」である。
筆者が初めて栗城史多氏を知ったのは、定期購読していたオピニオン雑誌でのインタビュー記事だ。当時は栗城氏にあまり関心がなかった為、それほど真剣に記事も読まなかった。
だが、2018年5月にエベレストで滑落事故で亡くなった後、ネット上では栗城氏の登山に対する取り組みなどに対する批判的な意見が多く見られたことで、俄然興味が湧いてきたのである。
栗城氏のインタビュー記事には関心を持てなかったが、筆者は山岳小説や登山家を描いたノンフィクションが結構好きだったので、栗城氏の事故原因だった「なぜ難易度が高いエベレストの南西壁のルートをあえて選んだのか?」の理由を知りたくなったからである。
そしてもう一つの理由が「なぜ栗城史多氏の評価は(マイナス評価がやや多いが)賛否が分かれるのか?」であった。
そういう意味では、普通の一流クライマーの登山成功物語を読むというような感じではなく、「栗城史多」という人間を深く理解したいというのがこの本を読み始めた動機である。
栗城史多氏の簡単なプロフィール
【1982年生まれ、北海道出身。
高校卒業後お笑いタレントを目指して、東京のよしもとNSCに入学するも中退し、札幌国際大学に入学。
在学中、好きだった女の子を見返す為、他校の山岳部に入る。登山歴2年でマッキンリー(6194m)に登頂。
2009年から2018年まで、計8回エベレストに「単独・無酸素」での登頂に挑む。
栗城氏の登山の特徴はカメラを持参し、インターネットで現地から生中継をし、視聴者との「夢の共有」を売りにしていた。】
栗城氏は自身を普通の青年と言っていて、身長も160センチ台と小柄な部類に入る為、筆者は栗城氏のことを「普通のどこにでもいる小柄な青年が、カメラ片手に単独、無酸素で果敢に8000メートル峰に挑む」というイメージで眺めていた。
ところが、この本を読んですぐにそんなイメージは崩れたのである。
栗城氏の高校時代の文化祭では、その風貌とは裏腹にお祭り男ぶりを遺憾なく発揮している。ユニークなのは3年を通して、劇の脚本、演出、主役を務め、実は一つひとつの劇が繋がっていて3年間で完結するという物語を仕込んでいたという部分。彼がその後カメラを持って、インターネットで中継し登山を共有するということに血道を上げていた点は、彼が高校生の時からその片鱗が伺えたのである。
高校卒業後一旦はお笑い芸人を目指して「よしもとNSC」に入る。この辺りの進路も普通のストイックな登山家というイメージからかけ離れている。世界で名高い登山家で、お笑い芸人になろうとチラッとでも考えた人がいるとは思えない。むしろ真逆な世界だろう。そこが栗城史多像の捉えづらい点である。
大学時代も実例を上げるのは控えるが、その風貌からは想像がつきずらいくらいのヤンチャな学生生活を送っている。
また肝心の登山家としての栗城史多氏の実力は果たしてどうだったか?
エベレストに登頂しようと言うからには、「体力、技術、精神力、判断力、経験」が備わっていないと難しい。本の中ではその点について何人かの証言があるが、エベレストに登頂できるだけのポテンシャルがあるかというと、やや心許ないレベルではあったようである。
詳しくは本を読んでほしいが、ある登山家によると「天気が良く、無風で、高度順応がスムーズにできて、運が良ければ…」みたいな条件付きなのだ。
このように客観的にはエベレスト登頂を果たすにはやや難しいレベルだったようだ。
しかしこういう客観的に難しい状況であったとしても本人に近い人達の証言では「本人は絶対に登れると信じていた」そうである。おそらく栗城史多氏に対して肯定的な捉え方をする人達は、彼の「限界を自分で決めない姿勢」「絶対に出来ると信じる強い信念」に惹きつけられたのではないだろうか。
他にも栗城氏の強みである「営業力、プレゼン力、憎めないキャラクター」などは評価されていたようだ。
だが否定派の見方は厳しい。曰く「パフォーマンスが過ぎる」「経験が足りないのにも関わらず、一足飛びに登ろうとしている」など、挙げればキリがない。
ある時などはエベレストの6400メートルと7000メートル地点で「ギネスブックに挑戦」と題して「カラ○○」と「流し○○○○」を行うという企画を立てた。なぜ世界最高峰の山を登る最中に、訳の分からないギネスブックに挑戦しなければならないのか?
さらには登頂アタックをするか否かを○○に決めさせる、などおふざけのオンパレードである。
一般的にもそう感じるのであれば、登山に必要なストイシズムを当然のように備えている登山関係者から、否定的な意見が多いのは当たり前である。
では全ての登山関係者が彼に対してネガティブな印象を持っているかというとそうではない。例えば登山のアカデミー賞にも例えられる、ピオレドール賞を受賞したH氏などは栗城氏を評価しているのだ。この辺が栗城史多という人物の評価が一方的にならずややこしくなるところである。
ともあれこの本が読者を惹きつけるのは、捉えづらい栗城史多像をパズルのピースを一つずつ埋めて行くようにして、その正体を明らかにしていくところにある。
それは著者自身が一時期、テレビ局のディレクターとして栗城氏に接していて、その捉えづらいキャラクターに困らされていた経験があり、「栗城史多とは何者なのか?」を解き明かしたくて、この本を執筆した動機とも重なっていく。
もう一つの謎「栗城史多はなぜ難易度が高い南西壁を選んだのか」であるが、こちらの方は読み進めていく過程で薄らと理解出来たような気がする。もちろん全てが理解出来たとはいえないかもしれないが、「最後のエベレスト挑戦」「山を降りた後の第二の人生への迷い」「最高難度の南西壁」「栗城史多というキャラクター」を組み合わせて考えてみれば、おそらく関係のない第三者でも栗城氏の無謀な挑戦は類推が可能だと思う。
とはいえそれをもって栗城史多という人物像が分かったとは言えないかもしれない。なぜならこの本の著者は、取材の最中に栗城氏を詳しく知る複数の人物から取材拒否をされている。著者自身によると様々な理由があるようだがその点は惜しかったと言える。
そういう意味ではこのノンフィクションは80点で留まる。本の副題の「栗城史多のエベレスト劇場」というキャッチーな副題が100点を超えているだけに、充分な取材が出来なかったのは悔やまれる。
もしかしたら今後、栗城史多を詳しく知る人物達に完全な取材ができた上で書籍にする他の作家が現れるかもしれない。
もし現れなかったとしても、現時点で80%だけ埋まった、栗城史多像のパズルのピースを100%埋めて完成させてみたいという欲求はこの本を読んだ読者なら誰もが持つに違いない。
そういう意味で、栗城史多氏の「エベレスト・単独・無酸素・南西壁」という無謀なチャレンジは本人の意図した通りに彼の死後、多くの人を惹きつけているのではないだろうか。
栗城史多が企画し、脚本、監督、主演を演じた「栗城史多のエベレスト劇場」は、いまだ上演中なのかもしれない。
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フルCGアニメで描く北朝鮮強制収容所 映画「トゥルーノース」
この映画「トゥルーノース」は在日コリアンの清水ハン英治監督が北朝鮮強制収容所に関する本を読んだことが契機となり、10年の歳月をかけて自己資金で制作した。(Wikipediaより)
ストーリー
【1960年代の帰還事業で日本から北朝鮮に移民した家族の物語。平壌で幸せに暮らすパク一家は、父の失踪後、家族全員が突如悪名高き政治犯強制収容所に送還されてしまう。過酷な生存競争の中、主人公ヨハンは次第に純粋で優しい心を失い、他人を欺く一方、母と妹は人間性を失わずに生きようとする。そんなある日、愛する家族を失うことがきっかけとなり、ヨハンは絶望の淵で「生きる」意味を考え始める。やがてヨハンの戦いは他の者を巻き込み、収容所内で小さな革命の狼煙が上がる。】(Amazonより)
ストーリー自体は、北朝鮮においてはもはや日常の風景と言えるかもしれない。主人公とその家族が父親の政治的な犯罪に巻き込まれてしまい、主人公とその母親、幼い妹の三人が政治犯を収容する強制収容所に連れて行かれる場面から始まる。
このアニメ映画を観始めた直後に、筆者は映画の世界に引き込まれたのだが、それはひとえにフルCGアニメの効果によるものだ。
「トイストーリー」以降、通常の2Dアニメよりも3Dアニメが劇的に増えたが、その内容はと言えば、大抵小さい女の子がうるさくはしゃぎ回るようなものが多いような印象である。どの作品もそうとは言えないが、嫌でも3Dアニメ=「小さい子供達がうるさく大袈裟にはしゃぐアニメ」というイメージが付着しているように感じる。
それに引き換えこの「トゥルーノース」は、ストーリーの冒頭から三人の家族が住む家に警察が踏み込む場面が展開される。
トラックに乗せられた後も、トイレ休憩さえ取らせてもらえないエピソードがリアルすぎて、ハリウッドのフルCGアニメみたいな予定調和の甘い世界ではないという現状を観る者に突きつけてくる。その割には登場人物達が見た目フルCGアニメのほっこりキャラなので、悲惨すぎて目を逸らせたくなる場面を軽減させることに成功しているのである。
物語は政治犯が入る強制収容所の中で展開される。収容所といってもそれぞれの家族単位で、ボロボロの掘立て小屋で寝泊まりする。
日中は女性が軽作業、男性は収容所敷地内の荒地や炭鉱らしきところで力仕事に従事させられる。
食べ物は一応配給らしきモノはあるのだが、カロリーも量も足りない為、みんな常にお腹を空かせている。
主人公のヨハンは、収容所に入った時点では小学生くらい。ある日金網越しに管理者の子供達と思しき集団がヨハンをからかい、四つん這いにさせて豚の物真似を強制する。ヨハンは屈辱に悔し涙を流すのだが、数年後にはヨハンは自ら進んで豚の物真似をして、管理者の子供達から食べ物を恵んでもらうようになるのである。
この辺のエピソードは、「飢え」というものは人間の尊厳を簡単に剥ぎ取ってしまうものだということを表しているが、飽食の現代人にはなかなか深くは理解できないと感じた。
主人公のヨハンは以降、次第に心が悪い方向に向いていき、管理者達の手下になったり、収容者を密告したりするようになる。
ヨハンの母親と妹は変わってしまったヨハンを快く思わない。家族の間に溝ができかけるが、ヨハンも必ずしも完全に悪には染まりきらない。
それはやはり母親と妹への愛情と、収容所内で出会った親しい友人の存在が大きかった。
この映画を観ていて思ったのは、ベタな分析ではあるが、心を許せる人間が身近にいることが、人間が悪の世界に進むのを押しとどめる効果があるのではないかと感じた。
物語の後半、ヨハンは妹と友人の三人で収容所を脱走する計画を立てる。果たして計画は上手くいくのか……。
ここ数年は中国のウイグル人弾圧が大きく取り上げられている為か、北朝鮮の人権弾圧は以前ほどは話題に昇らない。
だが実際は北朝鮮の独裁体制はずっと継続している。そしてそんな北朝鮮に中国は経済的な支援を続けており、かつ軍事的な繋がりも強い。
例えば2021年の夏から秋口にかけて、中国と北朝鮮が極超音速ミサイルの発射実験を成功させている。
この極超音速ミサイルはマッハ5で飛来し、軌道なども途中で変えられる為、迎撃不可能とされている。
中国と北朝鮮が同じ時期に、このミサイルの発射実験を行っていることは偶然とは考えられず、ミサイル開発の時点で交流があったと考えるのが自然である。
そしてそのミサイルの標的になっている国の中には、当然日本も含まれているだろう。
それに対して日本はいまだに有効な手立てを打ち出せずにいる。そればかりか中国に対しては政治家のみならず、一般国民でさえ中国の属国になりたがっているように見える。
日本が今の延長線上で進むのならば、映画「トゥルーノース」は北朝鮮の物語ではなく、未来の日本になる可能性が高くなっている。
だが「トゥルーノース」の意味は直訳すると「北の真実」だが、英語の慣用句では「羅針盤」という意味も持っているらしい。
この映画を観ることによって、日本の未来の羅針盤はいかにあるべきかを考えるきっかけになればと思う。
読書人口倍増計画・お勧め本5「山怪」「遠野物語」
今回お勧めする本は「山怪」(田中康弘/山と渓谷社)と、民俗学者である柳田國男が書いた「遠野物語」(Kindle)である。
まず「山怪」であるが、著者である田中康弘氏(フリーカメラマン)が全国各地の山にまつわる不思議な話しを集めて書籍にしたのが「山怪」であり、シリーズ化され現在4冊まで出版されている。
一つひとつのエピソードは1〜4ページくらいと短いので肩肘張らずに読めるのがありがたい。
その中のいくつかを紹介する。
「山怪」のエピソードで目立つのは圧倒的に「神隠し」と「狐に化かされた」というものが多い。
例えば、ある中学生が冬場に、あまり通りたくない薄暗い辻を通ると、突然目の前に夜店がズラっと並んでいるのが見えた。その店は靴屋や玩具屋など5〜6件並んでいたのだが、突然停電が起きたように光が消えて、気がついたら雪景色が広がっていた…。
さらにこの中学生は、別の日に今度はトロッコを走らせる専用のレールの上を歩いている時に夜店を目撃する。その時は中学生と一緒に歩いていた祖母も目撃しているのだが、やはり唐突に夜店は消えてしまったようである。
また別のエピソード。
ある時、山を登った男性が開けた場所で一息ついている時のこと。向かいの山の山腹で知り合いの先輩が山を歩いているのが見えた。しかしずっとその先輩を見ていると同じ場所を4回、5回とグルグル回っている。「いったい何をやっているんだろうか?」と思った男性はその先輩にトランシーバーで連絡をすると…その先輩曰く「何って、俺は山を降りてるんだ」との返事であった。狐に化かされている(かもしれない)人を、離れた場所から客観的に眺めた例。
最後にもう一つ。雪の降る冬の日のこと。バスの運転手をしていた男性はお客さんが乗っていない空身のバスを運転していた。「これは終点までお客さんは乗らないかも」と思っていたところ…あるバス停で身体に小雪をつけた男性がバスに乗り込んで来た。
ところがこの男性、いつまで経ってもバスから降りない。運転手も怪訝に感じたが結局は終点まで行ってしまった。
そして運転手がたった一人のお客さんに声を掛けようとうしろを振り向いたが誰もいない。
驚いた運転手は座席の隙間を丁寧に一つひとつ探してみると…一匹の狐がいたそうである。
凄い雪のなか、狐も暖かいバスで移動したかったのだろうか、という話し。
「山怪」を初めて知った時、「これは現代の『遠野物語』に違いない」と感じた。そして「山怪」を読んだからには明治43年出版の「遠野物語」を読んでみないと、と思い急ぎ読み始めたのである。
「遠野物語」のエピソード自体はおそらく明治時代内のものだとは思うが、中には江戸時代のエピソードも混じっているかもしれない。
こちらは「山怪」よりさらにオカルトちっくである。なにしろ天狗、河童、座敷童のエピソードが多いからである。
とはいえエピソードの全てが作り話とも思えない。一応そのエピソードの元ネタは明治時代であり、体験者がまだ(明治42年時点で)存命していた時だからだ。
「遠野物語」は昔のわかりずらい言葉で書かれている為、紹介などはしずらいが、例えば河童のエピソードでは、「母と娘が二代続いて河童の子を産ませられた」「手には水掻きがあり…身体は赤く口は大きく…まことにいやな子なり」。これが本当かどうかは証明のしようがないが、現代でも河童の目撃例は時々あるので、あり得ないこともないのでは、と思う。
また、人攫いの話しも多い。攫われる対象が大抵若い娘でありどこを探しても結局見つからなかった、というパターンだが、これをもって現代人は「誘拐犯」「町の女郎屋に売りつける」という発想に持っていく。もちろんそのパターンもあるとは思うが「遠野物語」ではそのありきたりの想像の斜め上を行く。
ある時、若い娘が行方不明になった。ところが数年後、娘のおじさんが山の中で、渦中の娘とばったり会う。
おじさんが娘に事情を聞くと、「背が高く、凄い眼の色をした人に攫われて、子供を産ませられた。するとその人は、生まれた赤ん坊を食べたり、どこかに持って行ったりしている」とのこと。
これは「外国人」なのか「天狗」なのか?
筆者はこの人攫いの正体が大体想像がつくが、このブログでは書くのを控えようと思う。やはり不思議な話しは不思議なままである方が、心に残りやすいからである。
唯物論に染まった現代人には「山怪」と「遠野物語」で中和するのも時にはいいのではなかろうか。地球における科学万能信仰への楔としても、ちょうど良いかもしれない。
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天才ピアニスト(兼作曲家)中村由利子さんの奏でる旋律はドビュッシーを超えた❗️
「芸術の中に神を見いだす〜音楽編」
今回の記事は今までの人生で最も長く、かつ繰り返し聴いているピアニストの中村由利子さんの音楽について語りたいと思います。
中村由利子さんのプロフィール
【3歳の時に親からトイピアノを買ってもらったことがきっかけで、少しずつ音を組み合わせてメロディにして行くことを覚える。5歳でピアノ教室に通い、13歳で横浜市主催の作曲コンクールに応募して賞をもらう。フェリス女学院短大音楽科卒業後、アルバム「風の鏡」でデビュー。
映画、番組などの話題作に楽曲が使用される。
最近では三鷹の森ジブリ美術館で上映された、 宮崎駿監督によるオリジナル短編アニメーション「星をかった日」の音楽を担当。
海外では特に韓国で人気が高く、日本人音楽家として初めて韓国ドラマの音楽も担当。好きな作曲家はクロード・ドビュッシー、フランシス・レイ、バート・バカラック、アントニオ・カルロス・ジョビン。】
初めて中村由利子さんを知ったのは、あるオピニオン雑誌で音楽家のM氏がお勧めのCDを紹介していたコラムを読んだのがきっかけでした。
それは「時の花束」というアルバムでしたが、その中の「パストラル」という北海道の美瑛をイメージした曲がめちゃくちゃ良くて、どハマりしたのです。
↓「時の花束」CDアルバム
「パストラル」という言葉は「田園生活を描いた〜、牧歌的な〜」という意味がありますが、「宗教的というより精神的な〜」という意味も含まれており、個人的には神に祈りを捧げるイメージを「パストラル」から受けたのです。
それ以来、発売されている中村由利子さんのアルバムをほとんど買い集めては、お気に入りの曲をせっせとカセットテープに録音しました。繰り返し聴いても飽きないため、いつの間にかCD→カセットテープから、CD→MDへ。さらに現在はCDからDAP(デジタルオーディオプレーヤー)に移行していってます。
↓「アトリエの休日」CDアルバム
↓「微笑みの軌跡」CDアルバム
↑…😅好きなアルバムのジャケットです。女性音楽家には美人が多いですが、中村由利子さんも本当に美人です。
中村由利子さんが作曲する音楽を、宮崎駿アニメの音楽を担当している久石譲さんと対比してみたいと思います。ちなみに自分は久石譲さんの作る曲も大好きです。
久石譲さんはまず他人(宮崎駿や北野武)が制作する映画のコンセプトが前提にあることによって、光る音楽を作曲できるような音楽家です。なので映画音楽とかがないご自身の作曲した曲もあることはありますが、圧倒的に映画音楽の方が良い曲が多いです。
それに比べて真逆なのが、中村由利子さんの作る曲です。中村由利子さんもいくつかアニメの音楽を作曲してはいるのですが、圧倒的にご自身がイメージした心象風景や印象に残った情景などを元にした曲の方が良いのです。
原作者がいて光るのが久石譲さんだとすれば、中村由利子さんは私小説的な作曲家という感じでしょうか。楽曲に込められたたテーマが聴き手の感性を揺さぶり、様々な情景描写を心に浮かばせてくれます。
いくつか例を挙げると…
○「スクールデイズ」→学校の校庭で学生が部活動をしたり、友達とおしゃべりしたり、様々なことをしている情景が浮かびます
○「誓い」→教会で結婚式を挙げている厳かなイメージが浮かびます。(ちなみに中村さんは未婚)
○「あの場所から」→何かしらの挫折があって、でもあの場所からもう一度再スタートしようという、意気込みみたいな感情が表現されています。
もう何十曲と名曲を生み出していますが、これらの曲にどれだけ自分の心が癒されたことか…。
特に昔、転職して障害者施設に勤め始めた頃、心身共に疲弊した仕事帰りには必ずクルマの中で中村由利子さんの曲を聴いて癒されていました。(同じ時期にモー娘。も聴いていてこれで元気をもらっていた)
現在も週末の夜、ベッドの中で何曲か聴いてゆったりとした時間を過ごすのが習慣になっています。
とにかくいろんな場面で繰り返し聴いても飽きず、どんどん好きになっていったのでとうとうファンクラブにも入ったのです。
そして1年に1回、中村由利子さんに直接会えるファンクラブの集いというものがあり、東京で開催される集いに電車を乗り継いで参加したのです。(実家から電車で1時間半)
会場はどこかの小ホールみたいなところでしたが、参加者の年齢層は30代前後くらいで40人くらい。やや女性が多いという印象です。
運営は中村由利子さんが当時ユニットを組んでいた「アコースティックカフェ」のチェロとバイオリン奏者の男性二人が協力していました。
集いの内容は何曲か演奏したり、クイズやミニゲームなどでしたが、その中で中村由利子さんに質問できるコーナーがあり、休憩時間中に質問用紙に質問を書いて、集まった質問用紙を中村さんがランダムに選んで答えてくれるというものでした。
中村さんが集めた質問用紙を手に取り、何枚か選んでいましたが「自分のを選んでくれないだろうか」と期待しまくっていたら…なんと自分の質問用紙を選んで答えてくれたのです。
その質問内容とは「曲を作る時はインスピレーションで作るのでしょうか?それとも頭脳で作るのでしょうか?」だったように思います。
そして、その答えはうろ覚えですが次のような解答でした。
「うーん…これは…両方で作っているように思います」でした。
ある意味自分が予想していた答えだったので嬉しかったです。また作曲する時は気取らずに「(冗談めかして)こたつに入ってねじり鉢巻をして作曲してます」とのことでした。
ファンクラブの集いの最後の方では、参加者一人ひとりと中村由利子さん二人で写真撮影をしました。
持参したカメラで撮影してもらったのですが、一枚撮った直後に中村さんが「あっ、今目をつぶっちゃったかもしれないから、もう一枚撮りましょう」と言ってくれました。
中村由利子さんの印象は、その美貌とは裏腹に非常にエネルギッシュでポジティブな印象でした。あと身長は普通の女性サイズでしたが、何より存在感が凄くありました。やはりその道の一流のプロフェッショナルアーティスト的オーラを放っていたのでした。
ここで自分がお勧めする大好きな曲をいくつか挙げてみます。
○ファンタジア
○トワイライトウインズ
○Comme Ce Jour
中村由利子さんの曲は全体的に、ヨーロッパ的色彩を帯びているように感じます。(オカリナ奏者の宗次郎が作る曲はどれも日本的なのと対称的)
ご本人も日本よりヨーロッパに郷愁を感じているのかもしれません。
あと中村由利子さんが影響を受けた音楽家は、ドビュッシーとのことですが、個人的にはすでにドビュッシーは超えているように感じます。
むしろ転生輪廻を信じる自分は、中村由利子さんはドビュッシーの生まれ変わりなのではなかろうかと密かに妄想してたりします。ちなみにドビュッシーはフランス出身なので、中村さんの曲調がフランス、パリの雰囲気なのも辻褄が合うような気がします。(とはいえドビュッシーは男性ですが…💦)
それにしても音楽家、特に作曲家は本当に凄いと思います。歌詞なら誰でも言葉を話しているので、素人でもなんとなく作詞できてしまいそうな気がしないでもないですが、メロディだけは素人は全く手が出せない分野だと思います。
中村由利子さんがインスピレーションを元に曲を作ることが出来るのも、音楽の神様がインスピレーションを降ろしているからとしか思えません。
そういう意味で中村由利子さんは音楽の神様から信託を受けて、この地上に素敵な音楽を届ける巫女さんみたいな役割なんだろうと思います。
今回この記事を書いたのは、今年の1月中旬頃に中村由利子さんが脳卒中になり手術までして入院したらしいことをホームページで知ったからでした。
あまり詳しい情報は少ないのですが、現在はリハビリをしており予定されていたコンサートなども今年は中止になったとのことです。
自分に出来ることは少ないのですが、わずかばかりの金銭的なお見舞い金を送ることと、このブログで中村由利子さんの音楽を知ってもらうことくらいしかありません。
中村由利子さんの身体が1日も早く回復するのを祈りたいと思います。
読書人口倍増計画・お勧め本4「モンテ・クリスト伯」
今回お勧めする本は、「三銃士」などで有名なアレクサンドル・デュマの「モンテ・クリスト伯(全7巻)」(岩波文庫版)である。
あらすじ
【今も昔も復讐鬼の物語が人々の心を惹きつけてやまないのは、それが幸福と安寧に背を向けた人間の究極の姿だからであろう。世界の文学史上最も有名な復讐鬼、モンテ・クリスト伯。19世紀フランスの文豪、デュマが創造したこの人物もまた、目的を果たすごとに、底なしの泥沼へと一歩足を踏み入れていく。
本名、エドモン・ダンテス。マルセイユの前途有望な船乗りだった彼は、知人たちの陰謀から無実の罪で捕えられ、14年間の牢獄生活を送る。脱獄を果たし、莫大な財宝を手に入れたダンテスは、モンテ・クリスト伯と名乗ってパリの社交界に登場し、壮大な復讐劇を開始する…。】(Amazonより)
文庫版で7冊もある長編ということもあり、考えさせられる論点が多くある小説である。
日本では「岩窟王」という題名で、子供向けに編集されているバージョンが有名だが、復讐劇ということもあり語弊はあるが面白さが約束されている本でもある。
筆者も以前から読みたいと思っており、今回たまたまタイミングが合い、本を手に取ってみたところ、そのストーリーの面白さに「もっと早く読めばよかった」と感じてしまった。
物語の出だしは、主人公のエドモン・ダンテスが20歳そこそこの若さで船のオーナーから次期船長を約束され、かつ誰もが羨むほどの村の美しい娘メルセデスとの結婚間近という設定から始まる。
ダンテスがまさに幸福の絶頂になりそうな状況に、同じ船乗りのダングラールは面白くない。
さらにメルセデスに横恋慕するフェルナンと、父親の政治的弱みを握り潰したいヴィルフォールが加わり、ダンテスは政治犯として孤島にある牢屋に収監されてしまう。
ダンテスを陥れた3人は、ほんの軽い気持ちだったかもしれないし、またそのような描き方もされている。だが「自分が幸福になる為には、人を不幸にしても構わない」という3人に共通する姿勢が、後の大きな復讐劇に繋がっている点を人生の教訓として覚えておかねばならないだろう。
以降、ダンテスは14年の長きに渡り牢屋で過ごすことになるのだが、そこで同じく無実の罪で牢屋に収監されているファリア司祭と出会う。
自分よりはるかに年齢が上で体力も劣るであろうファリア司祭の姿勢に、ダンテスは自らを反省する。
人から陥れられた結果としての逆境とはいえ、逆境時に人はいかにあるべきかを学ばされる。
ダンテスの復讐劇は島を運良く脱出し、この時に司祭から教えてもらったモンテ・クリスト島で莫大な黄金を手に入れた時から始まる。
以降、読者は牢獄島を出て自由の身になったダンテスの視点と、そこから派生する感情をそのまま自分の感情に重ねてしまうことになるだろう。
その一つは、世の中がいかに不条理であるかという点だ。
例えば、ダンテスを陥れた3人がその後要領よく金銭的にも社会的にも成功を得ていて、一方では昔ダンテスが働いていた船のオーナーは善良で立派な人だったにも関わらず、運悪く社会的窮地に陥っているのだ。
平たく言えば「悪人が栄え」「善人が不幸に」なっているのである。
ダンテス(以降モンテ・クリスト伯)ならずとも、このような理不尽な状況を見れば、自分が手にした黄金で、神に成り代わり何らかの手を下したくなるのではないだろうか。
モンテ・クリスト伯は実際に神に成り代わったつもりで、復讐劇を実行していく。
ただこの物語を単なる復讐劇とだけ見て、そのプロセスのみ楽しんで(?)欲しいというだけの小説ではないということは、読み進めていくにつれて気がつかされるのである。
モンテ・クリスト伯からすれば、14年間無実の罪で投獄されて婚約者まで失った苦しみと、同じだけの苦しみをダングラール等3人に味合わせてやりたいと思うのは当然である。
だが実際にその復讐の場面とその凄惨さを順番に見せつけられるにつれて、読者は別の感情が少しずて湧いてくるのに気づくだろう。そしてその感情は、主人公のモンテ・クリスト伯の心の内にも湧いてくるものなのである。
「目には眼を、歯には歯を」という考えは果たしてこれを正当だとして冷徹に復讐し続けられるものなのかを作者は問うているのだ。
モンテ・クリスト伯は復讐を果たす過程で、ある登場人物の言葉をきっかけに、復讐の正当性と「許し」を考えさせられることになるのだが、その場面こそ作者がこの物語で描きたかったテーマの一つなのである。
また、この物語は「悪人が栄え」「善人が不幸に」なってしまう世の中の不条理を、モンテ・クリスト伯が莫大なお金の力で、自分の思い通りにコントロールしていくのだが、「お金の力」がこの世界ではいかに強いかを嫌でも見せられるので、読者はやるせない気持ちになるかもしれない。
だが作者はそれに対しても答えを用意しているのである。物語の終盤あらかた復讐を済ませたモンテ・クリスト伯は、幸福感で満たされたかというと、必ずしもそうではない。
モンテ・クリスト伯はある計画を通して、「人間にとっての幸福」という本源的な問いに答えを出そうとするのである。
それこそ作者がこの物語で扱いたかったもう一つのテーマなのだ。
「許し」と「幸福」がこの復讐劇の隠されたテーマであり、人間にとってこの普遍的なテーマがあるからこそ「モンテ・クリスト伯」は単なるエンタメ小説とは言えず、長く読み継がれる古典文学の位置づけを与えられているのである。