崖っぷち日本のユートピア社会学by大山昇悟

崖っぷちに立っている日本をどうしたらユートピア(理想郷)にできるか日々考え答えを探していくブログです

香川県のゲーム規制条例から日本の未来を垣間見る

何かと話題になっていた香川県のゲーム規制条例が18日に可決されました。

 

それについての見解を述べたいと思います。

 

まず、問題になっていた条例の中身ですが、正式名称は、香川県ネット・ゲーム依存症対策条例」といいます。条例の素案は一通り目を通して見たのですが、字数が多い為ざっくりと条例が出された背景を要約すると…

 

「ネットやゲームの過剰な利用が、子供の学力や体力を低下させ、かつ引きこもりや睡眠障害、視力障害まで引き起こしている。なので、香川県の子供達や県民をネット・ゲーム依存症から守るための対策を総合的に推進するため、この条例を制定する」

 

続いて、具体的な対策としては条例の18条に記載されています。

「保護者はこどものネット・ゲーム利用に関しては1日60分まで。(休日は90分)

スマホの使用に関しては、義務教育の子供は夜9時まで。高校生以上の子どもは夜10までに使用をやめることを基準とする。保護者はこのルールを子供達に遵守するよう努めなければならない。」

 

大体こういうことが記載されていました。

 

ゲームに関しては自分も好きですが、どちらかというとスマホゲームではなく、PS4が中心です。スマホを初めて購入したばかりの時には、手元ですぐにプレイできるということもあり、1日に10〜20分くらいはやっていましたが、現在は一切やっていません。

 

やはりスマホだと「すぐにゲームがプレイできる」というハードルの低さから、ついついやってしまう面がよくないと思います。

そして子供達がそういうのに惹かれるのも気持ちはわかるのです。

 

やはり子供の時は感性が大人よりありますし、自分を楽しませてくれる機械には際限なく夢中になる可能性が高いでしょう。

 

ですので周りの大人がゲームを全否定するのではなく、どのように子供達を善導するかがポイントになると思います。

 

とはいえ、その善導の方法として、家庭内の教育の範疇に入ることを条例で義務付けてもいいのかということが議論の中心になっているかと思います。

 

学校内のことなら校則などで規制しても問題ないでしょう。しかし条例の18条にあるように、子供が家庭にいる間のことまで、行政が口を出していいものなのでしょうか?

 

ここで、教育基本法を見てみたいと思います。

教育基本法第10条には、父母は子の教育に第一義的な責任を負うとあります。そして10条の2においては、地方公共団体は家庭教育の自主性を尊重とあります。

 

つまり親は自分のこどもを、その家庭の方針に則って自由に教育することができ、地方公共団体はその家庭教育の自主性を尊重しなければならないということです。

 

つまり親は自分の子どもがゲームを1日中やっていようが、トランプや百人一首を1日中やっていようが、地方公共団体に人の家庭の事に口出しされるいわれはないということです。

 

なので、本来このような条例が案として出された時点で香川県の親御さん達は怒るべきなのです。

 

であるにも関わらず、3月13日の調査では香川県民の84%が条例に賛成みたいなのです。(真偽は定かではありませんが、パブリックコメントへの賛成意見への名義貸しが一部で行われていたという情報もありますが、貸すのをお願いする方も、貸してしまうのも言語道断です)

 

香川県民の親御さん達は、自分の子ども達がゲームをしすぎて、勉強が疎かになっていると感じたら自分達で子どもに注意しないのでしょうか?

 

これは結局のところ、家庭教育でも、学校教育でも社会全体でも、子どもの教育に成功してないということだと思うのです。

 

教育基本法の前文には以下のように書いてあります。

「我々日本国民は、①たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、②世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。」

 

続いて教育の目標です。

(教育の目標)

「第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 ①幅広い知識と教養を身に付け、②真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。」

 

条文はまだまだ続くのですが、さわりだけでも立派な文章ですし、良いことが書いてあると思います。この通りに教育が実践されれば、さぞかし良い人間が大量に育成されることと思いますが、子ども達はゲームに夢中になり、大人達もそれを止められないでいます。

 

なぜ大人達は自分の子供に、ゲームで遊びたい気持ちを抑えさせることができないのでしょうか?自分を律する自制心を持たせることができないのでしょうか?

 

そもそも1日のゲーム時間を60分と決めようとするからには、60分を超えてまでゲームで遊び、そのことが学業に影響を及ぼしている子供が多いとみてのことだと思われます。

 

そうであれば、やはり自制心の欠如について論じなければならないと思います。

 

人はなぜ自制心で自らを律するのでしょうか?

 

それはやはり目標や理想を実現しようと強く思うからこそ、自制心を必要とするのだと思います。

 

ではその目標や理想とは何でしょうか?

それこそ教育基本法にあるように、「民主的で文化的な国家の更なる発展」であり「世界の平和と人類の福祉の向上」であるはずです。

 

そしてそれらの目標や理想を実現する為に、各人が「真理を求める態度」「豊かな情操と道徳心を培い、「幅広い知識と教養」を身につけ「人格の完成」を目指すようになるものなのです。

 

で、あるならば、自制心が何故に起きてこないかというと、それは理想や目標の欠如であると考えられます。

 

では、公的幸福とでもいうべき理想や目標は、どこから湧き出てくるものなのでしょうか?

 

私自身はこれらの理想が自然にエネルギーとして湧き出るようになる為には、人間がみずからを、どのように捉えるかにかかってくると考えます。

 

つまり人間そのもののレーゾンデートル(存在価値・存在理由)をどう捉えるか、です。

 

人間がアメーバから偶然の積み重ねにより、人間まで進化したと考えたり、また人間がこの地上に偶然投げ出された不安定な訳のわからない存在だと考えると、教育基本法に書いてあるようなことなど単なる記号にしか見えず、ゲームで楽しんで何が悪い、という感じになるのも止む無しだと思うのです。

 

当然そのように人間存在を捉えるとするならば、そこから崇高な理想や目標は出にくくなり、その理想を実現する為に、自制心で自分を律しようとする気にはならないと思われます。

 

ですが現代では、その不安定な自己認識しかできない民衆につけ込み、利用しようとする人達が結構いるかもしれません。

 

例えばスマホゲームを作っている会社などは、強い悪意はないとは思いますが、民衆が不安定なレーゾンデートルしか自覚していないことをいいことに、スマホを利用し、民衆から時間とお金を奪うべく次々と新しい刺激的なゲームを出しています。

 

そしてそれを民衆も喜んで「時間泥棒」とでも言うべき存在に時間と、時にはお金を差し出しているのです。(ビル・ゲイツスティーブ・ジョブズなどは自分の子供には14歳になるまでスマホを持たせず、代わりに本を読ませたり上質な教育をしているそうですが、若干欺瞞性を感じなくもない)

 

さらには、香川県議会がひょっとしたら日本国憲法13条(幸福追求の権利)、25条(生存権・健康で文化的な〜にはゲームなどのサブカルチャーも含まれる)、第99条(公務員の憲法尊重擁護の義務)に抵触しているかもしれないにも関わらず、県民は第一義的に子供を教育する自由を部分的に権力者に差し出してしまいました。

 

今回の香川県のゲーム規制条例が、なぜ全国的に話題になり、否定的な意見が多く見られたかというと、そのような条例が可決されることによって、国家権力が自由の基礎法である日本国憲法を蔑ろにし、国民の自由をどんどん侵食していくのではないかと国民の多くが警戒しているからなのではないかと思うのです。

 

今回残念ながら条例は可決されてしまいましたが、そもそも教育基本法に書いてあるようなことを学校教育、家庭教育でも出来ず、子供達も期待に応えられていない状況こそが問題だと思うのです。

 

そしてそれは、教育する側とされる側も含めた人間のレーゾンデートル(存在価値・存在理由)の不安定さ、脆弱さから発していると思われるのです。

 

では確固としたレーゾンデートルはどこから来るものなのでしょうか?

 

私は「人間における正しいレーゾンデートルは、正しい宗教からしか導きだすことはできない」と考えます。

 

正しい宗教により自分という存在に崇高な価値もあり、存在根拠、存在理由もあることが認識でき、そこから教育基本法に書いてあるようなことの為に生きようとする、崇高かつ聖なるエネルギーが湧いてくると考えます。

 

ただ一応補足的に述べるとすれば、信仰を持ってない子どもでも、授業が分かりやすく、面白い先生に学べば、どんどん勉強したくなる確率は高くなるとは思います。そう意味では良い先生は必要です。

 

最後になりますが、この条例は罰則がない為に、実効性はないと思われます。ですが、このような「〜してはいけない規制」はますます増えていくのではないかと推察できるのです。

 

なぜなら無神論唯物論無宗教国家となりつつある日本では、相対的な善悪論や、多数決的善悪論が幅を利かせ、正しい善悪の判断を示しずらく「積極的に良いことをしよう!」と推進しづらいからです。

 

結果的にニュートラルな状態に置かれた国民は享楽的な方向に向かう為に、「〜をしてはいけない」という規制のみが少しずつ増えていくのではないかと思うのです。

 


そして将来的には、国家権力が国民の自由をジワジワと狭め、国民を思うままにコントロールしている国家が現出するのではないかと思われます。

 

今回の香川県の状況は、日本から宗教を日陰の存在に追いやった末の未来が、今まさに現れてきたと言えるのではないでしょうか。

 

 

 

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