崖っぷち日本のユートピア社会学by大山昇悟

崖っぷちに立っている日本をどうしたらユートピア(理想郷)にできるか日々考え答えを探していくブログです

ユダヤ人強制(絶滅)収容所の実態〜繰り返される全体主義の行方③

「あの恐怖をどう表現したらいいのか。今日の朝食も昼食もある人たちに、飢えをどう説明したらいいのか?

空腹とはみぞおちが痛むことだ。空腹とは、じゃが芋一個、あるいはパン一枚のために魂を売り渡そうとすることだ、とでも言ったらいいのか。

頭や体にシラミがたかっているような生活を、どう言えばわかってもらえるのか?

悪臭、恐怖、(ガス室行きの)選別、そして動物なみの扱いしか受けない点呼。

水がないので朝のコーヒーで顔を洗わなければならない。

だが何よりも怖いのは死とガス室だった」

(アウシュヴィッツ収容所の生存者の証言)

 

*下図はナチス統治下の強制・労働・絶滅収容所の配置図

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今回の記事では、ヨーロッパ各地から移送されてきたユダヤ人が、強制収容所でどのような扱いをされたのか、画像と生存者達の証言を交えて紹介します。

 

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下の画像はユダヤ人が移送された時、実際に使用された貨車。

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一つの貨車に数十人が詰め込まれ、数日間飲まず食わずで移送された。下画像はハンガリーからアウシュヴィッツに到着した場面。

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アウシュヴィッツに到着した直後に占めていた雰囲気をヴィクトール・フランクルはこう述べる。「移送されてきた私たちは、みんな多かれ少なかれ恩赦妄想にとらわれていた。相変わらず何もかもうまくいくはずだ、と考えていた。なぜなら、今何が起こっているのか、その意味をまだとらえかねていたからだ。」

ところがこの時点ですでにガス室送りにする人たちの選別は始まっており、生き残ってのちに体験談を書くことになるエリ・ヴィーゼルエヴァシュロッスは厚着をするなど大人っぽい格好をして、年齢を偽ることによりガス室送りを免れている。

下画像は到着後に選別されている様子

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アウシュヴィッツに移送されたプリーモ・レーヴィは当時のことを振り返ってこう述べる。「私の貨車にいた45人の中で、家に帰りつけたのは4人だけだった。つまり私の貨車が最も運に恵まれた貨車だったのだ」

ガス室送りを免れた健康な人たちは、その後収容所で劣悪な生活環境の中、強制労働に従事することになる。

下画像は毎日行われる点呼の場面。脱走した者がいないか確認する意味もあり日に数回行われていた。

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生き残った当時19歳だった青年は、点呼の辛さをこのように回想する。

「点呼の間に彼らは多くの仲間を殺しました。誰かが失禁してしまったというような、些細な理由で殺すのです。(中略)可哀想に、我慢出来なかったのです。赤痢にかかって、つい下痢をしてしまっただけだったのです。」

そして、ナチスはもとは48頭の馬用の厩舎に800人も押し込んだ。

以下生存者の回想「6人が一枚の木板の上で眠りました。(中略)誰かが寝返りをうてば、全員が寝返りをうたなければなりません。それほど木板が狭かったのです。上掛けは一枚、枕はなし、もちろんマットレスなどありませんでした。」

エヴァシュロッスは就寝時の状態を人間スプーンと表現している。

便所などもちろんなく、部屋の隅にあるバケツに用をたし、バケツがいっぱいになると最後の人が別棟にある決められた場所に捨てに行っていた。

そして食事といえば水のようなスープちっぽけなパン。おまけにチーズのかけらや、ソーセージ一切れなど。

そのような過酷な生活環境の上で、日々の強制重労働が行われていた。

下画像はマウトハウゼン収容所。右下の二人はソ連兵。

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アウシュヴィッツには無意味な労働もあったが、生き残るためには働けることを示すのが大切だった。以下生存者の証言。「毎朝、彼らは我々を整列させて収容所の外に連れて行きました。大きな石をただ移動させるのです。翌日もまた同じ場所に連れてこられ、石を移動させられました。その翌日も、また同じ場所で、今度は同じ石をまた元の場所に戻させられたのです。栄養失調で衰弱しきっていた我々にとって、重い大きな石を運ぶのは重労働でした。夜になってバラックに戻る時には、這っていくのもやっとというほど疲労困憊していました。」

そして強制(絶滅)収容所に到着した直後に行われた選別も、その後何度も選別が行われ、ユダヤ人たちを常にガス殺の恐怖に怯えさせることになる。

選別の責任者は医師であり、悪名高いヨーゼフ・メンゲレである。下画像がメンゲレ。

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以下は生存者の証言。「選別。私たちは毎日服を脱がされ、走らされました。歩くのではありません。しかも親衛隊将校の見ている前で。まだ走れるくらい元気だということを示さなければならなかったのです(中略)…彼らは棒を持って立っていました。…その棒が示す方向〈右か左か〉に走っていくことになりました。今自分の立っているラインがまだ生きられるラインなのか、死ぬラインなのか、それは誰にもわかりませんでした。一方のラインはガス室に続き、もう一方のラインは収容所のバラックに戻って、もう一日生きていける。」

下画像は隠し撮りされたガス室に向かう女性収容者

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下画像は当時使用されたガス室

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ガス室による虐殺の様子がアウシュヴィッツの所長ルドルフ・ヘースによって書かれている。

下画像はルドルフ・ヘース

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「最初、女と子供がガス室に入り、次に男が入った。(中略) また、特務班の囚人たちが、不安がったり、殺されることに感づいた者たちを、すぐにその場から連れ去ったため、混乱は起きなかった。(中略)それからドアが素早く閉められると、待機していた消毒係がすぐに天井の通風口からガスを送り込んだ。ガスは換気口を通って床までおりた。(中略)中の様子はドアの覗き窓から観察された。」

下画像は戦後親衛隊の裁判での証言をもとにして作られたガス室の中の様子の模型

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「通風口の近くにいた者はすぐに死んだ。三分の一は即死に近かった。残りの者はよろめきながら悲鳴をあげはじめ、喉をかきむしってもがいた。やがて悲鳴はゼーゼーとあえぐ音に変わっていき、数分もすると、全員が倒れたまま動かなくなった」

下画像はガス室で死んだユダヤ人を、親衛隊の指示で囚人が死体から金歯などを抜く為に隣室に運び入れていく様子を模型にしたもの。

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そして、死体の処分は焼却炉ができる前は手作業で行われていた。以下ホロコースト全史」より引用「死体の片付けと処分は大変な仕事だった。最初、アウシュヴィッツ収容所の死体は、石灰坑に埋められた。だが、ほどなく巨大な墓穴は死体で溢れかえった。しかも埋められた死体は分解されて地中でガスを発生させ、土が盛り上がった。

のちに死体の処理方法は、新型の焼却炉で行われるようになる。

そして、中にはまだ息があるうちに焼却される犠牲者もいた。

以下は生存者の証言

「私は特務班として収容所内を回り、死体や死にかけの囚人を集めて荷車に積み、焼却場に運ぶ仕事をしていた。焼却場には別の特務班がいて、死体を炉の中に押し込んだ。押し込まれた人たちのなかには、まだはっきりと意識のある人たちもいた。

ある時、我々はカポ(囚人の長)のところに言いに行った。『この男の人は死んでいません!』私はひっくり返るほどのビンタを食らい怒鳴られた。」

下画像は使い過ぎの焼却炉がよく故障した為、屋外で死体を焼却する様子

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この地獄のような環境の中で生き延びた人たちには何か特別なものが備わっていたのだろうか?少なくとも死を近づけてしまう方法というのはあったようである。プリーモ・レーヴィは語る「打ち負かされるのは一番簡単なことだ。与えられる命令を全て実行し、配給だけ食べ、収容所の規則、労働規律を守るだけでいい。(中略)こうすると良い場合でも三か月以上はもたない」

そもそものナチスの方針として、強制労働をさせながらの「ユダヤ人の自然消滅」が方針としてあったのであり、その通りになったようだ。

生き延びる為に必要な姿勢、方法などをレーヴィは語っているが、ここでは取り上げない。以降は強制(絶滅)収容所を生き延びた後、著書を残している3人の言葉から収容所での様子を見ていく。

暴力

フランクル「ほどなく毎日毎時殴られることに対しても、何も感じさせなくさせた。この不感無覚は被収容者の心をとっさに囲うなくてはならない盾なのだ。なぜなら収容所ではなとにかくよく殴られたからだ。まるで理由にならないことで。」

ただフランクルは著書の中でこうも述べている。「殴られることの何が苦痛だと言って、殴られながら嘲られることだった」

飢え

ナチスの方針にユダヤ人の自然消滅がある為、配給の食料も微々たるものであり、それだけを食べていた収容者は確実に餓死していたようである。フランクルは収容所が連合軍によって解放される直前の最後の数日間の状況を語る「数ヶ月後すでに解放された後に、わたしはもとの収容所に残った仲間と再会した。この男は(中略)最後の日々、死体の山から消えて鍋の中に出現した肉片に手を出した一人だった…わたしはあの収容所が地獄と化し、人肉食が始まる直前にそこを逃れたのだった」

死の始まり〜靴

レーヴィ「死は靴からやってくる。囚人の大多数は靴から拷問の責苦を味わう。数時間も行進すれば痛くなって皮がむけ、必ず化膿してくるからだ。(中略)そして常にしんがりになり、いつも殴られることになる。追いかけられても逃げられない。足はさらに膨れ上がり(中略)木と布の部分の摩擦が耐え難いものになる。」

冬の寒さ

レーヴィ「前の冬はここで過ごしたから、冬が何を意味するか私たちは知っている。(中略)それは10月から4月までに十人中七人が死ぬことを意味する。

衰弱

フランクル「外に出るには階段を二段上がるのだが(中略)何ヶ月も収容所で過ごした今、足の力だけでは自分の体重を20センチだけ二回持ち上げることなど、とっくにできなくなっていた。」

 

……………………………

 

 

ナチスのような全体主義国家の中で、強制(絶滅)収容所に入れられるということは、人間であることをやめることを意味します。というか、誰しも人間ではいられなくなるということです。

当時15歳の少年だったエリ・ヴィーゼルは、父親と共に収容所に入れられ、衰弱した瀕死の父親に対して、自身に起きた感情を語る「『ヴィーゼル、息子よ、来ておくれ…わしを一人きりにしておかないで…ヴィーゼル…』父の声が聞こえたし、話していることの意味も捉えたし、この瞬間の悲劇的重要性もわかったのであるが、私はそのまま自分の居場所から動かなかった。

私は恐かった。(親衛隊員に)打たれるのが恐かった。

それだからこそ、父が涙を流して頼んでいるのに、私は耳をかさないままでいたのである。

涙にうるんで、ぼやけていた父の声は、引き続き静寂をつんざいていた。(中略)その時何が起こったのか。その親衛隊員は怒りだし、父に近づくと頭を打ちすえた。『黙れ、おいぼれ、黙れ!』

父は棍棒で殴られても感じなかった。私なのだ、感じたのは。(中略)

ヴィーゼル!ヴィーゼル!おいで、わたしを一人にしておかないで…。(中略)

しかし、私は身じろぎもしなかった。

そのことを、私は私自身に対してけっして許しはしないだろう。」

…………………………

ナチス統治下の強制(絶滅)収容所が解放されて、すでに75年の時が経ちました。その間世界中の人たちが学校をはじめ様々な機会に当時のナチスユダヤ人に対して行った悪業を学んでいると思われます。

そしておそらく誰もが「こういうことは二度とおこしてはならない」と思っていることと思う。

ただ反面「こんな酷いことが再びおこることはないのではないか」とも思う人も少なくないのでないでしょうか。

そんな私たちの心を見透かしたように、アウシュヴィッツから生還したプリーモ・レーヴィは、大学での講演でこのような言葉を残しています。「ナチの憎悪には合理性が欠けている。それは私たちの心にはない憎悪だ。人間を超えたものだ。(中略)だから私たちには理解できない。だがどこから生まれたか知り、監視の目を光らせることはできる。またそうすべきである。理解は不可能でも、知ることは必要だ。なぜなら一度起きたことはもう一度起こりうるからだ。(中略)だからこそ、何が起きたかよく考えるのは、万人の義務なのだ」

 

その人類共通の義務を怠った時に何が起きるのか?

 

前回、アンネ・フランクベルゲン・ベルゼン強制収容所で亡くなったことを記事にしました。

 

アンネが亡くなったのは、1945年の3月上旬頃と推定されています。その一ヵ月後には連合軍により収容所は解放されています。その時の様子が以下の画像です。

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1945年の5月、ベルゲン・ベルゼン収容所は伝染病拡散防止の為、英軍により全ての建物が焼き払われました。

下画像は収容所跡地に建っているアンネとその姉マルゴーの墓碑

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アンネとマルゴーの遺体はその判別が困難な為、墓碑のみが建っています。

 

アンネ没後76年、21世紀に入り現在のナチス党とも言うべき中国共産党が世界を自らの支配下に置くべく悪業を積み重ねています。

下の二つの画像はウイグル人強制収容所と見られている建物

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この中国共産党の野望に対抗し、自由と民主主義を世界に広げられるかで私たち人類の運命が決まると思う。

現在中国は世界の国々に経済的、文化的、法律的、メディア的に様々な形で入り込んでおり、利害関係から中国に対して面と向かって批判できない状況があちこちで起きていると推測します。

ですが、中国が行っているウイグル人に対しての人権弾圧に対して見て見ぬふりをするならば、それは70年以上前に一般のドイツ人がユダヤ人の迫害を暗黙のうちに容認していたことと同じになるのではないでしょうか。

 

私たちが70年以上前のユダヤ人迫害の歴史を教訓として活かさないとするならば、それは言葉を変えて言えば、

アンネ・フランクを2度殺すようなものだと思うのです。

 

次回からは中国共産党が行ってきた人権弾圧を取り上げていきます。

 

 

 

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