崖っぷち日本のユートピア社会学by大山昇悟

崖っぷちに立っている日本をどうしたらユートピア(理想郷)にできるか日々考え答えを探していくブログです

「表現の不自由展・その後」について考える③

前回のブログ「表現の不自由展・その後」について考える②からの続きです。

 

慰安婦像の展示は「自由の濫用」もしくは「公共の福祉」に反するのか?それともそうでないのか?

 

まず、慰安婦像を展示したい側は、少女の人権が戦時下の日本軍に不当に侵害された(と思われる)ことを、広く現在の日本人に知らしめたいと思い、展示しようとしたと思われます。

 

そしてその時点では「表現の自由」の権利を行使しての展示なので、美術館側も特に事前に、「展示は取りやめるように」とは言いませんでした。

 

ところが、他の一般市民からすると、「戦時下での従軍慰安婦の強制連行などはなかった」という見解を持っている人もいます。

 

そして、そういう人たちからすれば、従軍慰安婦像を公的資金を使って展示するということは、自分たちとその先祖の人権を侵害されるように感じると思うのです。

 

自分たちが払った(決して安くない)税金で、自分たちとその先祖を貶められるというのは、我慢できないことだと思われます。

 

つまり慰安婦像の展示は「公共の福祉」に反していると思われたので、抗議をしたのです。結果、1000件以上の抗議電話と、「ガソリンを撒く、サリンを撒く」などの脅迫紛いの電話やメールがあり、展示会自体が取りやめになるに至りました。

 

ここで、最も難しい「自由の濫用」について述べてみたい。

 

つまり従軍慰安婦像の展示は「自由の濫用」に当たるのか?それとも否か?

 

 

従軍慰安婦強制連行はあったグループ」からすれば、慰安婦の人権を侵害されたのだから、それを広く知らしめることは、正しい知識を世の中に広めることになるので、「表現の自由」を正当に行使しており、「自由の濫用」には当たらないし、むしろ「公共の福祉」に叶っていることなのです。

 

ところが「従軍慰安婦強制連行はなかったグループ」からすると、慰安婦像の展示は嘘を広められることに等しく、自分たちとその先祖の人権を甚だしく傷つけられるがゆえに「公共の福祉」にも反していると捉え、かつ「嘘の慰安婦像」の展示は「自由の濫用」と思うのです。

 

この問題を突き詰めると、結局は「従軍慰安婦強制連行」はあったのか、なかったのかに行き着くことになります。つまり歴史観歴史認識の問題です。

 

どちらの意見が多いかはアンケートを取ってみないとわかりませんが、どちらにしろどちらかの意見が100%になることはないのではないでしょうか。

 

なぜなら第二次大戦で、アメリカが日本に原爆を落としたことについて、アメリカ国内では「民主主義対ファシズム」の戦いだと一方的に主張し、また教育現場でもそのように教えているにもかかわらず、アメリカの日本に対しての原爆投下をアメリカ国民の100%が支持をしているわけではないからです。

 

つまり、従軍慰安婦強制連行問題も、どちらかが多数派になったとしても、タイムマシンでも発明されて過去の歴史をくまなく調査でもしない限り、100%の日本人がどちらかのグループになるとは考えられないのです。

 

そして今回の展示に話しを戻すと、もし「従軍慰安婦強制連行はなかった」グループが、少数派でありそれこそ10人くらいしかいなかったとしても、抗議の電話を執拗にかけまくり、脅迫紛いのテロ的な予告をすることによって、展示会を中止に追い込みこともできるし、現に中止となりました。

 

当然、「従軍慰安婦強制連行はあった」グループが少数派であっても同じことになる可能性はあります。

 

余談ですが、今回の展示会での芸術監督を務めた津田大介氏は、4月にニコニコ生放送での対談で、「あいちトリエンナーレ」を批判した人に対して「殺すリスト」に入れていると発言していたことがわかり物議を醸しているようです。

 

では、公的な機関は、「展示物の内容いかんによって」その展示物を展示することが、「自由の濫用にあたる」のか、または「公共の福祉」に反するかをどう判断するのか?

 


また、公的機関が熟慮の末「展示物を展示しない、展示する」の判断をした結果、市民の「表現の自由を閲覧、制限、侵害」していないと言えるのだろうか?

 

この場合、「従軍慰安婦問題」という歴史認識が(国としては談話をだしているものの)国民全員の総意(100%の日本人という意味)が未決定ゆえに、公的機関としての判断を難しくしていると言えるのではないでしょうか。

 


つまり、その展示物を展示することが、結果的に「公共の福祉に反する」ため、「自由の濫用」に当たるということであれば、どちらの立場であっても当てはまってしまう為、永久に判断ができなくなってしまうのです。

 

従軍慰安婦強制連行はあった展」でも「従軍慰安婦強制連行はなかった展」であっても、公共の福祉に反する為、「税金を使ってやるのはおかしい」となってしまい結局はどちらの展示会も開催することはできないでしょう。

 


ただ、ひとつ確実に言えることは、今回の展示会が、一地方自治体が主導して開催するのではなく、民間レベルで、例えば一個人が空き家を借りて、展示するなどであれば、騒がれることもなかったであろうし、それに対して行政側が中止を求めることもなかったのではないでしょうか。

 

 

民間レベルであってもあまりにも大々的に開催すれば、また脅迫はあるかもしれないが、行政側が口を挟むことはなかったと思われます。

 

なぜなら憲法99条には「憲法尊重擁護の義務」が公務員に対して課されているからです。わかりやすく言うと、「表現の自由」を公務員は制限、侵害をすることはできません。(もちろん猥褻物など公共の福祉に反するような度が過ぎた自由の濫用は、内容によっては警察等の介入はあり得ますが)

 

結局は、歴史認識についての見解が分かれている事案であるにも関わらず、公的機関がどちらかに肩入れし、税金を投入して展示会を開催することの是非に行き着くのです。

 


ではここで、遅まきながら「従軍慰安婦強制連行問題」についての歴史認識を述べてみたいと思います。

 

④に続きます。

 

 

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